【昭和正論座】日本的な戦没者追悼の盲点 リビングマガジン研究所長・弁護士 佐藤欣子
□昭和57年6月29日掲載風化する「玉砕の悲劇」 この五月、私は若い根っこ丸洋上大学の講師として初めてサイパンを訪れた。「南洋ざくら」と呼ばれる火炎樹の赤い花が咲くサイパンは、想像よりはるかに美しい島だった。隆起珊瑚(さんご)島を取り囲む透明なエメラルドの海は静かで、白波の彼方(かなた)には紺碧(こんぺき)の太平洋が輝いていた。 四十年ほどの昔、この島で激戦が行われ、数万の日本人将兵と一般婦女子が「玉砕」したとは信じ難かった。四十年といえば、個人の生涯にとっては、いかに決定的であっても、長い歴史の中ではほんの束の間にすぎない。しかし、その歳月の間に累々たる屍(しかばね)は風化し、目にやさしい緑の灌木(かんぼく)(タガンタガン)がうっそうと地表をおおい、すべては砂のごとく砕け、今は打ち寄せる波がかすかな涙の跡を描くのみである。 といっても戦前の日本は、さまざまな形で残っていた。例えば、バスガイドを務めてくれたベンさんは、日本統治下の公学校の卒業生であり、徴用されて日本軍のために働いていたので立派な日本語を話した。そして彼はサイパン玉砕の現場をその目で見た一人であった。 「学校で、一年生ではそうですね、ハトポッポ。二年生ではこいのぼりですね」。彼はそういって次々となつかしい小学唱歌を歌いハーモニカを吹いた。「これを覚えなければ日本人になれないといわれましたから一生懸命覚えました」といって彼は教育勅語(ちょくご)も暗誦(あんしょう)した。< 前のページ1234次のページ >
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